『組織文化』と『日本文化』の共通項を考えていくと、人の本来の生き方が見えてくる。



本日、お仕事にてとあるベンチャー企業の社長さんと話をしていた時のこと。

彼は日本への移民の方々が低賃金で過度に労働するのではなく、能力をしっかり評価された上で。日本人と同じように働けるような国を創りたいと会社を立ち上げられている方でした。

国籍問わず同等に評価される世界というのはとてもいいなあ、と思いつつ、ふと感じたことを伝えてみました。

「能力が評価される世界というのはとても素敵だけれども、組織開発のお仕事をしているからこそ思うのは、それを実行するには個人的に3つの障壁がある気がするんです。第一に、移民の彼ら彼女らが自らの能力を日本の企業に合わせた形で伝えられるかということ。第二に、日本の企業側が移民の彼ら彼女らの能力を正確に把握することができるかということ。第三に、一と二の壁を突破して採用が適ったとしても、その企業文化に移民の方々がマッチするのはかなり互いに難しそうということ。そこらへんどうです?」


すると、彼からこんな言葉が。

「いやあ、ほんとそうなんですよね。日本の大手の会社の文化に移民のみなさんがフィットするかって、すごい難しいんです。定着することが、すごい困難で。」

「そうですよねえ。実際そんな例は、、、」

と会話を進めていたのですが、そんな会話の後に、彼からこんなことを聞かれました。

「北村さんってもともとは茶道家をしていた時期があったんですよね?組織の仕事をしていて、それとの共通項ってあるんですか?」



さて、茶道だけに限らず日本文化全般が大好きで今も時々お茶をしたり、花を生けたり、時々三味線を学んだり、焼物を見て歩いたり、歌舞伎を観に行くのも好きな私。

そんな私のお仕事は組織開発、もとい組織内のマネジメントやコミュニケーション、文化、感情などを扱っておりまして。

パッと見ると何も関連性のない事柄のように見えますが、個人的にはかなりリンクしているところがあります。

端的に言うと、それは『結局は人が集まったところ、その場を最適化するために生まれるもの。』ということです。



話は随分と遡りますが、人類が地球上に生まれた時のこと。
人類の発祥は数百万年前の南アフリカだと言われています(諸説ありますが)。

最初の人類は、1人で行動します。
でも、次第に何人かで集まったほうが生活もしやすくなるし、生存率も上がることが分かってきて、他の人と共同生活をするようになるわけです。

で、その際に随分と意思疎通がしにくいはずです。互いにやりとりするためのツールがジェスチャーとか、ある一定の音しかないからです。
だから、彼らは自らの生存確率を強化するため、口から発する音に意味を持たせ始めるのですよね。
それが言葉の始まりです。言葉ができてくることによって、互いの意思疎通が格段にしやすくなり、協働することも以前と比べたら簡単になるわけです。

そんな共同体が、各地にできてくると、その共同体ごとに言葉が違ったり、物の捉え方が変わります。
そりゃ、大草原の中で生きる塊と、砂漠の中で生きる塊では考えることも必要なものも全然違いますよね。

そこから、その共同体同士で足りないものを補い合うために意思疎通を図ったり、奪うために戦ったりします。


とまあそんな風に人類が発祥するわけですけれども、ここで私が言いたいのは、「その生きている世界に適合するために、人は集団となり、その場に最適化された言葉や習慣を持つ。それが文化だ。」ということ。

人が複数人存在した上で、必要に応じた形で文化が形成されるわけです。
人が1人でいたら、文化も何もないですよね。

※なお、こんな話を深堀りたい方はこちらの『ヒューマン』がオススメ。私が今年3月に南アフリカにいる時に、「人類発祥の地で人類発祥について学んで見よう」と思い読んでいた本なのですが、その発祥がとても細かくとてもおもしろき切り口で書かれています。

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さて、人の始まりについて言及してきましたが、単純に人の始まりを書きたいわけではなく、それを捉える時を変えてみてほしいのです。
現在において、人が集まり生存する、つまり何かを生産していくもの。


そう、組織です。
『組織文化』という言葉がありますね。『会社のカルチャー』とも言われるでしょう。
それは、そもそも人がたくさんいる中で、そこの場が存続するために必要な言葉や空気感、習慣です。共通言語とでも言えるでしょうか。
皆さんも、ご自身の会社のことを考えてみてください。おそらく、自社だからこその言葉や空気感、習慣があるはずです。
そして、それはそもそも自分たちの場を最適化するために最初は生まれてきているわけです。


別の軸で考えてみましょう。
『日本文化』というともはや伝統的な、古来から続くもの、例えば茶道とか華道とかを想像されるかもしれませんが、この『日本文化』も、そもそもは人が集合した上で、彼らがよりうまく生きていくため、生き続けるために生まれたものなわけです。

茶道だってもともとは政治や経済の根幹を担う人たちの交流の場として設計されたわけですし、華道だって同じように政治や経済の根幹を担う人たちが自らの力を誇示したり鍛錬を積むために行っていたわけです。そもそも、自分たちの場を最適化するために生まれてきたわけです。



そう考えていくと、面白いとは思いませんか?

『組織文化』にしても『日本文化』にしても、同じように集団がその集団がよりよく生活するために最適化を図ろうとして生まれているわけです。


ですが、今はもはや二極化が進んでいますね。

新たな技術や分野を取り入れて生まれるもしくは変化し続けようとする企業(リクルートみたいな会社が当てはまるのかもしれませんね)、新たな要素や技術を取り入れて変化し続けようとする伝統文化(歌舞伎とかは、ワンピース歌舞伎だとか色々チャレンジしてますよね)。
今と未来に最適化しようと、生みの苦しみを存分に味わいながら突き進んでいます。

その一方。
本来はその場その時代その人達に最適化していくはずのものなのに、ほぼ国営とでも言えるような巨大企業が崩壊していくのを国が守ろうしますし、廃れそうな古来からの文化を国が守ろうとしています。

廃れていくのは最適化できていないからであって、守るのではなく新たに創って行かねばならないはずなのに。



『組織文化』と『日本文化』、全く異なるものだと思われるでしょうし、そもそもそれらを比べようともしないかと思いますが、意外や意外。何かしらの共通項は見つかるものです。
そして、それと同時に考えられるのは、いま自分たちがいる世界の問題点なんて、他の世界や全然違う時代にすでに解決しているかもしれません。
だって、どんな問題も最終的には人の問題に行き着きますし、少なくとも人は数百万年も生きているわけで、人に関する問題で解決できなかった問題なんて、ないと思いませんか?

仮にあったとしたら、数百万年の間に人がやってもできなかったのですし、もはや諦めて別のことに時間を割いたほうが良いかもしれませんけれどね。



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