『物事を突き詰めてゆく』それは全て、長い長い歴史を紐解く物語の始まりだ。




『時代を超える窓、僕は三味線がそんなものに見えて仕方がないんだ』


伝統芸能・伝統工芸、などの分野でご活躍なさっている方のお手伝いをさせていただく機会が本業とは関係なく多いのだが、
昨晩は600年以上続く三味線のとある流派の十二世家元とお話。

彼の研究所のお手伝いをさせていただいているのだが、気がつけば4時間くらい話をしている中で、彼はその終わり頃にこの言葉が口からぽろっと出てきた。

私は、この言葉がもう本当に、本当に心の中にスーッと入っていき、とても心が軽くなったような、なかなか歩みが遅かった自分の足がスムーズに動けるようになった、そんな感覚を持ったので、今回はこの言葉について書こう。



正直、三味線をはじめ伝統芸能や伝統工芸に取り組む人口なんて、たかが知れている。
最近でこそ『おもてなしブーム』や『日本のものづくり』への注目、『インバウンド需要』などと、言葉にあげられることがあるが、表層的すぎてその歴史を背負った事柄の本質へも全く迫らず、一部の界隈の人で取り組むとてもニッチな世界だ。

実際、比較的そんな世界が大好きな私でさえ、何か舞台を見たり古典を読む時に、知らないことが多すぎて面倒になりとくに見る気も失せるようなことも、よくある。



だが、彼が今夜言った

『時代を超える窓、僕は三味線がそんなものに見えて仕方がないんだ』

そして、このあとにこう続けた。

『この窓を覗くと、そこには江戸時代が広がっていてね。そっちの長屋では家事をしながら歌舞伎の1シーンの言葉を発している女性がいるし、道端には三味線を搔き鳴らしながら歌う人がいる。そんな光景がこの窓から見えるんだよ。』

この言葉は、本当に、本当に新鮮だった。



この言葉には行き着いていなかったけれど、間違いなく、私がいつも思っている感覚。
たかが数年茶道を学んだ身、たかが趣味興味がそちらに向いているだけの身だとしても感じるのだ。
この『時代を超える窓』というものを。


私の場合は茶道に当たるが、学び続けると、様々な要素と繋がってくる。

「ああ、江戸時代の人たちってこんな風にお茶を飲みながら考え事をしていたのかな」
「この茶室にかけたれているお軸の意味って、そういうことか」
「この茶碗、作られたときにはこんなことを大切にしながら作ったのだろうか」
「この人たちの考え方って、こんな生活からきてるんだな」

そんな風に感じながら、茶道を通して過去の人々の感情とか、感覚とか、感性とか、そんなものを追体験することができる。
そう、まるで江戸時代に、安土桃山時代にタイムスリップしたかのような感覚を得る時があるのだ。



彼の場合は三味線を通した上で時代を超えているわけだが、どんな伝統芸能や伝統工芸も同じ関わり合いがあるだろう。

学べば学ぶほど、大切にすれば大切にするほど、追求すれば追求するほど、多分その『窓』から見える景色は鮮明になり、多分その『窓』から見える景色は色々な時代を飛び越えるようになり、多分その『窓』から見える景色は固定の場所も同時に気楽に飛び越えられるようになる。



正直、生きていくために必要不可避なものではない。むしろ、どちらかというと嗜好品に含まれてしまうだろう。

それでも、少しでもそれができるだけで日々何か美術品や映画などを見る時の視点を変えることができるようになるし、仕事の感覚にも十分繋がってくるような感覚があるのだ。


彼は最後にこう言い放った。

『三味線はね、北村くん。僕を過去に連れていってくれるんだ。それも、とびっきり面白い昔にね。』



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