『ライオン 25年目のただいま』から感じる、人は誰しもがいつでも迷子なのではないか、、という話。


迷子。

幼少期であればなりたくないものであり、親になれば自分の子供たちにはなってほしくないもの。

でも、ふと思う。

人なんて誰でもいつも迷子なのではないかなと。




昨日、『ライオン 25年目のただいま』という映画作品を見た。

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内容としてはこうだ。

インドの農村部で迷子になり、母と兄とはぐれてしまう小さな主人公。
いろんな危ない目にあいながら、家ない中で必死に生きながら、なんとか保護され、オーストラリアの白人夫婦にもらわれる。
それから25年後、ふとしたタイミングで自身の幼少期を思い出した主人公は、自分がこの25年間ずっと迷子だということ、ひたすら母と兄が探し続けてくれていることに気がつく。そこで、なんとしてでも自分の生まれた場所へ、自分の母と兄を探すため、遠い記憶を頼りにGoogle Earthを駆使して自分の本当の故郷を探す旅を始める、、、

これ、全部実話だそうだ。

あまり詳しく書くとネタバレになってしまうので避けるが、
1人1人の感情をとても綺麗に、とても鮮明に色と音を用いて描くこの作品は、本当におすすめだ。
見て後悔する人はいないはず。
(ちなみに私は昨日の夕方、外が暗くなりつつあり自宅もそれに伴い暗くなる時間帯、1人でこれを見て大号泣していた)




さて、これを見て思うこと、それは、『人はいつでも誰しもが迷子なのではないか』ということ。

家のある人が家に辿り着けないことを迷子とも呼ぶし、母親の元に辿り着けない子供のことを迷子とも呼ぶ。

仮に迷子を、辿り着くべき場所を理解した上で、そこに辿り着いていない、という状態を指すのだと仮定してみるとどうだろうか。


人生という壮大な旅路の中で、自分が辿り着くべき場所を完全に理解している人なんているのだろうか。
予想したり、想像したり、目標にしたりする人はあれど、それを完全に理解して日々歩んでいる人などいないはずだ。
(もし仮にいるとするなら、それは超能力者や神の部類に入ると思われるので、今回の対象からは除外する)

皆、到着地点を完全に理解せずに、ただ自分の今の思いや未来への展望を元に、日々歩んでいる。

全員、いつでも迷子だ。
その中で、もがきながらも必死に生きている。

なんだかそう考えていくと、こんな気持ちが湧いてくる。
いつも迷子なのであれば、もっと気楽に迷子を楽しみながら日々歩めるようにできないものだろうか。
そんなことを、多くの働く方を見ながら思うのである。

少なくとも私は、何をしても迷子なら、迷子を楽しめるように歩む道を変えてみたり、歩むスピードを変えてみたり、背負う荷物を変えてみたり、履く靴を色々試してみたいなとも思うのだ。

それが、本当の意味での"生き甲斐"に繋がるような、もっと今の言葉でいうと、『働き方改革』になるのではないか。
そう、信じてやまない。



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