新たな未来を創るために必要なもの。それはあなたが心底避けたくなるような、激しすぎるほどの制約だ。




30日間の「お茶ブログ」が終焉を迎えました。

なんとも厳しい期間でした。
日々の思考を全て茶に帰結させるか茶を起点にしていくという脳内の作業は、今まで行ったことがないもの。

バスに乗りながら外に緑色のものを見る度、「あ、お茶、、、」
誰かと話していて飲み物の話が出ると、「あ、お茶、、、」
と思うくらい、端からすると気持ち悪いくらいお茶な日々でした。


この30日間のはじめ、私はこう記しています。

『この30日間を通して、このお茶関連の思考を深めていきながら自身の未来をつくっていこうと思う。』
ーこの30日間のブログの方向性について / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/08/30.html



結果、どうだったか。


本当に、本当に心の底からチャレンジして良かったと思う日々でした。

自身の大好きなものと今の生活、今の仕事、今の感覚を丁寧にすり合わせる日々を送ったことが随分なかったので、この期間は自分の中にある理性と感情を毎日少しずつ、少しずつ紐解いては結び、紐解いでは結んでいたような気がします。


以下、この30日間の中でも私の心に更に深く刻まれ、かつ自身の未来そのものだと思うブログとその中の抜粋を列挙していきます。


■本来在るべき組織は、"人"の不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分を愛せる組織ではなかろうか。 / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_40.html

本来在るべき組織は、"人"の不恰好で不安定で、いびつで欠落した部分を受け入れて、それを活かしていこうとする組織、つまり、"人"のそのような曖昧な部分を愛せる組織ではなかろうか、、、
そう思いながら、私はいま、仕事に向き合っているのです。
勇気をもって毎日楽しく前へ歩む人が増えるように。
そして、そんな人で溢れる組織が、増えるように。


■『組織文化』と『日本文化』の共通項を考えていくと、人の本来の生き方が見えてくる。 / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/09/blog-post_5.html

『組織文化』にしても『日本文化』にしても、同じように集団がその集団がよりよく生活するために最適化を図ろうとして生まれているわけです
-中略-

廃れていくのは最適化できていないからであって、守るのではなく新たに創って行かねばならないはずなのに。


■『君の膵臓をたべたい』を観て、『毎日、幸せでいる勇気を持つ』ことの重要性に気がついたという話。 / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/08/blog-post_25.html

でも、人の人生なんて、しょせん有限です。
あと100年生きるかもしれませんが、今日死ぬかもしれません。

その時、『幸せ』を感じられているか。
とてもとても、大事なことだと思うのです。
そして、そう『幸せ』を毎日感じることは、誰しもに与えられている権利だと信じています。

『毎日、幸せでいる勇気を持とう』

私はこの映画を観て、心の底から、そう感じたのです。


■最新の名著である『GIVE & TAKE』の世界観は、遥か昔、仏が語った『三輪清浄』の世界観と同じである。 / 勇気なるKYの日々

『三輪清浄』とは、こんな意味があります。
"施す人、受け取る人、施す物がいずれも清浄でなければならない"
-中略-
実際、この『GIVE & TAKE』の本の中では与える物自体のことはあまり言及していません。
でもこれ、『三輪清浄』の世界観だと説明することができます。

この"施し"の部分に関して、『無財の七施』という説法がありまして、こんなことを言っています。
"財産や物理的な物がなくても、施しというのは様々な形でどんな人でもできることなんだよ" と。
-中略-
つまり、相手がとても目上の方だったり、あまり存じ上げない方だったり、そもそも自分が何をできるかわからないという方だったり、
そんな方でも、自分が少し相手のことを想えばできることを丁寧に行うことで"施し"つまり"ギブ"することができるということです。
『三輪清浄』の世界観も、『GIVE & TAKE』の世界観も、自ら体現することができるということです。


■『神は細部に宿る』が、『細部を宿すのは自分自身』である。 / 勇気なるKYの日々

これはそもそも、『花』を技巧を凝らして生けることが重要なのではなく、その『花』をもって『花』自体の最高に美しい部分やその命そのものを十分に生かすことで、見る者に感動を与えることが重要なはず。
-中略-
『花』に限らず、全ての物はその創られた意図や背景、創る人の考えや思想が反映されますよね。
これを今の言葉でいうと、『神は細部に宿る』というような表現をするのかもしれません。
でも少なくとも、『細部を宿すのは自分自身』であって、神頼みすれば勝手に宿る物ではないということを認識しないといけないのかもしれないですね。


■人は日々の行動で、自身の"過去"から"今"を無意識に表現している。善くも、悪くも。 / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/08/blog-post_86.html

お茶を学ぶということの最終的な目的は、自分自身を表現すること。つまり、お茶を通して自分という人間はどんな人間なのかを考え、形に表し、人にも伝えるということです。
-中略-
そこには、その人の性格やものの考え方、積み重ねてきた経験といったものが全て表れます。道具の選び方にしても、そこにいやがおうにも個性が表れてきます。ふだんどういう生活をして、どんなことを考えていて、いままでどういう人生を歩んできたのか、そういうことが全部、お茶に反映されてくるのです。


■なぜ、最新であるべき『伝統』が最古のものに成り果てたのか。 / 勇気なるKYの日々
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/08/blog-post_23.html

守り伝えていくために欠かすことのできないこと。それは、常に油を注ぎ続けることです。常に油を注ぎ続けることで、その火をこれからの未来に向かって灯り続けます。
-中略-
これこそが、『伝統』の本質なわけです。昔と同じものをひたすら守っていくことが大切なわけではありません。
最初の思いを継ぐためには、常に新しい油を注ぎ足すことが必要なのです。
-中略-
燈火をそのまま残し守るのではなく、少しずつ油を継ぎ足しながら、創り伝えていく。
それが『伝燈』もとい『伝統』であるならば、私はその油たる『未来』を注ぎ続ける人間でありたいなあと、いつも思うわけです。


次回以降は、「お茶」という制約を無くした状態のブログに戻ります。
でも、これから思い描くことはきっとこの上記のような要素を含み、かつ昇華させ研ぎ澄ませるような内容になっていくものだと思っています。(他のことが考えられない脳みそになっている可能性は若干ありです。笑)

ひとまず、「お茶ブログ」はこれにて終焉。
みなさま、毎日毎日お茶お茶失礼しました。

また次回以降もよろしくお願いします!

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