『嫌なことをも好転させるには、"自らの欲望に忠実であれ"』と、とある三味線の家元が語った。




先日、とある三味線の家元とごはんを食べている時のこと、
『同じことをひたすらしていても、"自らの欲望"という要素があるかないかで、随分と身体の感覚というものは変わるものだね。』

とおっしゃっていたので、聞いてみると、こんな返答がきました。

『私は三味線の席ではいくらでも正座していられるのだけど、最近行ったお茶の席ではどうしても10分ともたなかったんだ。私はどうしてもお茶が苦手でね、物静かに正座していることが苦行のようなんです。で、三味線をするとすぐに治るんですね。私は本当に心からいつも三味線を欲していて。北村君は、茶道の時どうでしたか?』

正直、私は普通に畳に正座していても茶道をしていても、何も変わらずひたすら"痛い"という感情を持っていたので、「いやいやそんなことあるかいな」と内心思いつつ、「そうなんですか先生!それは三味線をやるために生まれてきたようなものですね!」と合いの手を打っていたわけです。


ですが、そのことを帰り道に歩きながら考えてみたところ、仕事に置き換えたら「なるほどそりゃそうだ」と気づく瞬間がありました。


仕事なりなんなりで何か新しいチャレンジをする瞬間が、誰でもあると思います。

「これ本当にできるかな、、、」
「なんだか怖い、、」
「できない気しかしない」
などなど、誰しもが持つ感情でしょう。

でも、そのチャレンジが自分の発案か他人の発案かによって、受け取る情報と感覚が全く異なります。

自分発案のチャレンジであれば、もはや「頑張って取り組もう!」というように思うでしょうし、
他人発案のチャレンジであれば、「自分で考えたわけじゃなくやらされ感満載だから、どうしようかな、、」と若干後ずさりすることもあるかもしれません。


他人発案のチャレンジにて、自身の意向に沿わない時はもはやポジティブに取り組むことはできないのでしょうか。



実際、この家元の話に合わせてみると、気づくことがあります。

何も自分の意向に沿わないというところを無理に沿わせる必要などありません。

この家元は、正座というもの自体を、自身が大の苦手なお茶というものを起点に考えることをやめ、自身が大好きな三味線を行う場である、時間であるというように定義づけをすることで、正座を全く意に介さないものに変化させています。
つまり、自らの欲望に心を移ろわせたわけですね。


仕事においても、他人が考えたもので自身の考えからのものではないし、好きな要素もないし、、、とどんな方向からも否定的に思うのではなく、
一旦自分が心の底から欲する部分を見つけてみて、その部分に自らの身体を委ねていけば良いのです。


考えてみると当然といえば当然なのですが、1つ疑問があります。

というのも、私自身、茶道は好きだけど正座はいつまで経っても苦手で茶事の度に悶えていたので、
「では私は何を欲すれば正座に前向きに取り組めたのだろうか、、、」と考えるのですが、それでもよく分かっていないのです。笑

ただ、これもまた考えると迷走し思考の旅に出てしまいそうなので、思考停止させたいという自らの欲に身を任せ、今回はこの辺で終わりにしようかと思います。



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