『神は細部に宿る』が、『細部を宿すのは自分自身』である。



昨日の夜、とある蕎麦屋へ深夜に伺いました。
原宿に店を構え、多くの人や車が行き交う大通りを眼下に臨みながら蕎麦を食すことができるそのお店。
店内はとても落ち着いていて、なんだか原宿にいるということを忘れさせてくれるような心地よいお店なのです。

そこに、ありました。

今日の本題、『花』です。

お店の中には、至るところに『花』が生けられていました。
おそらく毎日生け替えているのでしょう。

1つの花器に複数本生けられているものもあれば、1本だけ生けられているものもあります。

さて、その『花』。

生けられているものを見て、思ったのです。

それらを生けた時の人の気持ちというのは、如実にその『花』に現れるなあと。

今日は、お花の生け方、もとい茶道の世界の中にある花に関する考え方について書いていくことにしましょう。



『茶聖』と呼ばれた千利休が語った内容を紹介します。

『利休七則』というものです。

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『利休七則』

(1) 茶は服のよきように点て
(2) 炭は湯の沸くように置き
(3) 花は野にあるように
(4) 夏は涼しく冬暖かに
(5) 刻限は早めに
(6) 降らずとも傘の用意
(7) 相客に心せよ
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これは、ある弟子が「茶の湯とはどのようなものですか」と千利休に尋ねたところ、この七則を語り「これが全てです」と答えたそうです。
それに対し、弟子は「そんなことくらいなら私でもできます」と不満そうに言ったそうな。


さて、これは『そんなこと』なのでしょうか。
『誰でもできること』なのでしょうか。


確かに、その文章だけを見渡してみると、できるような気もしてきます。
文字面での意味を加えて記してみましょう。

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『利休七則』

(1) 茶は服のよきように点て
 →茶を差し上げる相手が飲みやすいように、適度な湯加減と茶の分量でお茶を点てるということ。

(2) 炭は湯の沸くように置き
 →茶の湯の際、湯がよきタイミングで適切な温度になるように炭をくべること。

(3) 花は野にあるように
 →何か技巧を凝らすのではなく、花はあくまでも自然の中にあるような状態で入れるべきだということ。

(4) 夏は涼しく冬暖かに
 →今のように冷暖房などない時代です。夏なら朝の涼しい内に催したり、冬なら暖かくあるような配慮をするなどのこと。

(5) 刻限は早めに
 →早め早めに準備をするということ。

(6) 降らずとも傘の用意
 →雨が降らないとしても、天気がどのように変わるか分からないので傘の用意をしておくこと。

(7) 相客に心せよ
 →茶事の際は、いつも以上に人への気遣いをしようということ。
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端的な意味だけ読んでみると、これだけといえばこれだけです。


『花』に関することだけを引っ張ってみましょう。

"花は野にあるように"

これは、上記のように、『何か技巧を凝らすのではなく、花はあくまでも自然の中にあるような状態で入れるべきだということ。』です。



ここからは私の解釈です。
でもこの意味は、本来的に千利休が伝えたい内容でもないし、やってほしいと思った内容ではないと思っているのです。

これはそもそも、『花』を技巧を凝らして生けることが重要なのではなく、その『花』をもって『花』自体の最高に美しい部分やその命そのものを十分に生かすことで、見る者に感動を与えることが重要なはず。

少なくとも、ただ野に、自然にあるがままのようにさっと生けるのは、違うのではないでしょうか。


この『利休七則』の捉え方、『花』に関する項目だけに上記の考え方が当てはまるわけではありません。
他の項目においても、表面的な意味ではなくより深いところに、本質的な意味があるはず。
言うままやれば良い、ということではありません。背景や思想など、もっと本質的なところを意識してこの言葉たちを捉えられるかで、その創られた対象物から受ける印象はとても異なります。



話を冒頭に戻しましょう。
原宿の蕎麦屋にて見たその『花』たちは、なんだか「まあ毎日生けてるし、今日も生けますよ」とでもいうような感覚を受けました。
これは私の感性なのでどなたでもそれをそう感じるか分かりませんが、他にもそう感じる人はいるでしょう。

その場の『花』からそのような感情が沸き立つと、他の食事だったり器だったりを見る目も変わってきます。


『花』に限らず、全ての物はその創られた意図や背景、創る人の考えや思想が反映されますよね。

これを今の言葉でいうと、『神は細部に宿る』というような表現をするのかもしれません。

でも少なくとも、『細部を宿すのは自分自身』であって、神頼みすれば勝手に宿る物ではないということを認識しないといけないのかもしれないですね。


そう考えてみると、千利休は『細部を自ら徹底して宿す』ことで茶道を大成させ、それが評価されて信奉されて、『茶聖』つまり茶道の世界の『神』として崇め奉られるようになったのかもしれません。


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