『軍事力』は、時が変わりゆけば人を助けるものになるはず。『茶の湯』だって、そうだったのだから。
今朝、北朝鮮からミサイルが発射され、北海道の空を超えていきました。
発射から4分で通知があり、それから4分で日本の領空を超えていきました。
いろんな感想がウェブ上にはありましたね。
「領空侵犯はもはやまずいだろ」
「4分の間で安全なところに逃げるのって、無理」
「もはや安全な場所はあるのか」
気がつけば、戦争状態になってもおかしくない状態です。
今のこの時代ですら、世界を牛耳るのは兵器なのでしょうか。
さて、そんなことがあると思うのです。
「今の世の中の支配するメカニズムってなに?」
みなさんはどんな答えを出すでしょうか。
資金力?
政治力?
軍事力?
科学力?
エンジニアリング?
思考力?
さて、この中に答えはあるのでしょうか。
あるような気もしますし、もしかしたら想像もしていないような答えがあるのかもしれませんね。
そして、特に何か1つを指して答えであるわけではなさそうですね。
また、今朝のようなことがあると、資金力×軍事力×国民の扇動力のような気もしてきます。
昔だと、どうだったのでしょうか。
時を、織田信長の時代に移してみましょう。
織田信長が生まれたのは1534年、天文3年。今から500年ほど前ですね。
応仁の乱以降より長らく続いた乱世の戦国時代、もともとあった価値観を破壊し、天下統一へ向けて突き進む織田信長が「メカニズム」として機能させていたものは、莫大な資金力や軍事力だけではありませんでした。
何か想像できますでしょうか。
「茶の湯」です。
今でいう、「茶道」です。
どういうことか。
端的に書くと、こんなことがあったのです。
「名物」と呼ばれる茶道具が、国一つに匹敵するほどの価値があることに気づく
↓
「名物狩り」として、京都などにある名物道具を莫大な資金力を持って買い上げる
↓
家臣に恩賞として、茶道具を与える
↓
茶道具が全てを支配するメカニズムと化していく
また、それ以外にも織田信長は「茶の湯」を許可制とし、家臣に茶会を開催させることを禁止しました。戦功の褒美として、「茶の湯」の開催を許可するわけですね。
それを推し進めたのが千利休であり、その後織田信長は本能寺の変で明智光秀に殺されるわけですが、そのあとに天下を統一する豊臣秀吉も、千利休と共に「茶の湯」という政治システムをさらに強化するわけです。
「茶道」は今でこそ、ほんのりはんなりな文化・アートですよという顔をしていますが、戦国時代から安土桃山時代、その時代にはその世界を統治するためのメカニズムだったわけですね。
もちろん、それ単体で人に危害を加える訳ではありませんが、人を支配するために一助だったのです。
別に今からこの「茶の湯」が世界を統治する、支配するメカニズムになるであろうだなんて予言をする訳でもないし、そうなるように自分自身行動したいわけではないですが、全てのものはその時代の要請に従って生まれ廃れていくわけです。
時を今に戻しましょう。
そう考えると、北朝鮮のミサイルは、北朝鮮からすると今という時代の要請から生まれた軍事力の塊な訳であって、そういう解釈をすると、茶道もあの時代の要請によって国を統一するために使用された手段。ある意味、何も変わらないわけです。
ただ、そこに存在するのは人と、人の気持ちだけ。
軍事力だって、もともとは誰かを救うために創出されたものです。
それをどう使うか、どのような意味をつけるかは、人によるのです。
千利休の時代から500年経ち、茶道は日本古来の文化として、アートとしての価値を持つに至りました。
昔と比べたら人がこぞって競って取り組むようなものではなくなってしまいましたが、人の心を安らげるもの・人に平穏を与えるもの、、など、人の生活に寄り添う存在となりました。
ミサイルは軍事力。それは変わりません。どの国でもそうです。
ここ100年で、その軍事力が多くの人を殺してきました。
でもそれがまた人のことを助けるものに、人を救うためのものになる。
そんな時代がきてほしい、いやきっとくる。
かつては人を支配した文化をいま学び、愛してやまない身からすると、そう思って止まないのです。
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