『露地』という言葉から見る、徐々に失われる意味たち。




突然ですが、『露地』と聞いてどんな光景を思い出すでしょうか。

今となってはもう、思い出すことも難しいものになってしまっているかもしれません。

これです。


、、、「これです」と言っても分かりにくいかもしれませんね。


もともと『露地』は、"茶室や草庵の庭。また、門内や庭の通路"というような意味があります。

今となってはもう、、、と書いたのも、すでに家に茶室がある家なんてとても限られていますし、茶道経験がないとこの『露地』という言葉も使わない可能性があるからです。
(もちろん、日本式の庭をお持ちの方であれば、言葉として使う可能性はあります)


さて、だんだん知っている方も減ってきているこの『露地』という言葉。
通常では単なる"道"としての意味しか成さないものではありますが、実は茶道では別の裏の意味があるのです。

それは、

"憑き物や悪しき想い、立場や身分を落とし、自らの心そのままになる"

という意味です。

漢文的な読み方をすると分かりやすいですね。
"地を露す"
"地"とは、人の本来の心を表し、"露す"は綺麗な状態で表出させるという意味ですね。

つまり、茶室の中では自らの立場や身分や心の悪しき部分を無くし、全ての人が清らかなる気持ちで同じ立場としてその場に存在すると。
茶室への道中で、その状態になるということなのですね。


このように、安土桃山時代〜江戸時代あたりでは立場を同じくして接することができる場がありました。
(もちろん、同じ場に招待されるということは、元からある程度の身分がないと同じ場に招待されないということでもあるのですが)


果たして、それを同じような場は今の世の中にあるのでしょうか。

会社の会議?飲み会?ゴルフ?

同じコミュニティにいる前提ですと、立場を同じくして接するという場はあまり思いつきませんね。

ある意味、喫煙室というのは近かったりするのでしょうか。
元々は喫茶文化も茶道の中に含まれていたわけですし。


でも、この『露地』のような考え方はもはや現代には適応できる言葉がありません。
それはなんだかとっても悲しいことだなあと思うのですよね。


このように、古来より在りし言葉には、様々な意味があります。
それが失われてしまうと、もはや日本語もアルファベットのように、その言葉自体に何も意味のない言葉になってしまうのではないでしょうか。
それはそれで使いやすいというメリットもあるのかもしれませんが、少し、悲しい気持ちがするのは私だけでしょうか。


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