ひとひらの"サクラ"を通して日本人が見つめる世界とは。



このブログ企画にてここ最近の30日間「お茶」に関することを必ず絡ませて書いています。
これを始めてから、昔、茶道にはまっていた時のことを毎日思い返すようになりました。

今日はその中でも、茶道をしっかり学ぶようになった時にとても戸惑ったことについて書いてみたいと思います。


茶道の世界では、かなり細かい繊細な部分に目を向けるということを意識します。
例えば、茶碗のちょっとしたいびつな部分とか、点前の時の亭主(茶を点てる人)の礼の仕方とか。

そういった意識を表した表現の1つに「侘び寂び」という言葉がありますね。この言葉は皆さんも時々聞く言葉かもしれません。

「寂び」は、見た目の美しさ/良さが欠けていること事態を指します。物というのは、年が経つにつれて、寂びれたり汚れたり足りなくなったりしますよね。物がそのような状態になることを人は劣化と捉えますが、「寂び」という概念ではそれを逆に捉えています。美しい状態・良い状態からのmその変化が織りなす、多様で独特な美しさ、それを「寂び」と言うんですね。

また、「侘び」は、寂びれたり汚れたり足りなくなっている状態を受け入れて、楽しもう、感じ入ろうとする心のことを指しています。つまり、「寂び」を受け入れる心を「侘び」と言うんです。


実際この意識って、茶道などを始めたタイミングでは相当に難解なのです。そもそもそれらの物にどのような背景・歴史・特徴があるのか全く知らないので、まず最初に何がどういう状態にあるのが正常なのかも分からないんですね。

皆さんも経験がお有りではないでしょうか。学生時代の修学旅行で京都に行った時、大人になってからデートで鎌倉に行った時、お寺や神社に行ったことがあるかもしれません。
有名だから行ってみる、というのが大体の動機で、実際行ってみたからといって何も知らないので、「行きました」という事実だけが記憶に残りがちです。楽しさや学び、美しさというものを感じることはなかなか困難でしょう。

私も実際に茶道などを始めた時は、茶碗の何を見て良いのかも分かりませんでしたし、飾ってある花を拝見すると言ってもその花のどこをどう見て何を感じれば良いのか分かりませんでした。

師匠とかにも、「これはこういいものなのよ」と言われても、「いやいや、さっきのと何が違うものなのか分からんのですよ、、、」と内心思うことが何回あったことか。


もちろん、今も何かすごく分かるようになったのかと聞かれると、正直分かりません。

でも、様々な工芸品を見た時に「あ、これあそこのですよね」とか分かるようになったし、日本画を見た時にその線の描き方を普段目にも止めぬような些細な違いを時に気にするようになったり。


ちなみに、『千利休 無言の前衛』という本の中では、上記のようなかなり細かい繊細な部分に目を向ける、ということを『ディテールへの愛』という言葉で表されています。

千利休―無言の前衛 (岩波新書)

例えば、サクラ。

これ、もともとは"櫻"という文字になりますが、漢字ですので、もちろん中国から渡ってきたわけですよね。

"嬰"という字にはもともと、まとう、めぐらす、とりまくという意味があるようです。中国では、サクラの花がぐるりと木をとりまいて咲く全体像を見て櫻という文字ができているのです。


それでは、和名である"サクラ"はどのように作られたのか。
元々日本語での"サク"という言葉には裂・割などの「二つに分かれる」という意味があるそうです。
また、"ラ"の部分は、「佐久"良"」や「野"良"」というように日本語の中でも口調を整える、あるいはその状態を意をあらわす為にあるらしいです。
なので、"サクラ"の意味は"サク"にあるんですね。

これはすでに推測でしかありませんが、昔の日本人たちは櫻の花びら1枚1枚を見つめていたのでしょう。その花びらの先に切れ込みがあり、二つに分かれている、と。


つまり、中国大陸の人々はピンクの固まりに包まれたサクラの木を一個体で見ていたのと反対に、日本の人々は散ったサクラの花びらの1つをそっと地面から拾い上げて、その1枚をしっかり見ていたということです。



グローバル化が進むにあたり、国ごとの違いが、境界がなくなってくると、アイデンティティーというものも次第に薄れてきて、自身の背景情報を認知することも難しくなってきますよね。

でも、我々がここで生まれたからこそ、この場所で生きてきた人々の血を継いでいるからこそ、他とは違う、我々独自の感覚は無くしたくないものです。

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