伝統文化が生き続けるには、過去を語るだけでなく未来を語らねばならない。




本日、とある三味線の家の12代目家元とごはんを食べていた時のこと。
人間国宝でもある彼から、とても興味深い話を聞いた。

三味線の撥がもうすぐ手に入らなくなる、という話だ。


「撥」と言ってもあまり使わない文字だし難しいと思うのだが、簡単に言うと、三味線を弦を打つもののこと。こちら↓




これ、本当にいいものは、とある種類の象からしか取れない天然の象牙で作るらしい(もちろん合法)。
だがしかし、その象がアフリカにてあまりにも乱獲されすぎたことにより絶滅しそうということで、もはや撥のための象牙を手に入れるのがそれはそれは困難らしい。

なので、その象が絶滅してしまう前に、それに変わる撥、もちろん質を完全に担保した撥を開発しなければということで、彼はその開発のために動き始めたらしい。

そこで彼はとある大学教授たちと共に動き始めたらしいのだが、そりゃもう全然厳しいとのことだった。
何が厳しいって、必要なお金を集めることが難しいとのこと。

専門家の試算によるとその開発のためには数億ほどかかるらしいのだが、その出資者が全く見つからない。
どんな人からも、「三味線にそんなお金使っても意味がない」「なんでそんなことに協力しないといけないのか」「撥でそこまで音なんて変わらないでしょ」ということで全然協力者が現れないとのこと。

まだ始め当たっている先が少ないということもあるとは言いつつも、彼はその言葉たちを聞きながら、「億単位でお金集めるって今時あると思うんだけど、三味線ってそんな価値ないのかな」と、笑いながらも少し寂しそうな様子だった。


さて、彼が言うように、数億単位の出資は普通にある。
いわゆるベンチャー企業、しかも本当に小さな企業に対して2〜3億の出資は普通にあるし、有名なベンチャー企業なら10億〜40億くらいの出資も存在する。
他にも、とある大手企業がIoT分野のベンチャーを200億で買収するというのも最近あったばかりだ。

特に、AIだとか宇宙産業だとか、そういった分野にはどんどんお金が集まってくる。
そんな企業群と比較するのがよいのか分からないのだが、三味線の世界とは何が違うのか。

今日、彼との会話の中で至った結論、
それは、こんな違いだった。
「その企業/文化を通して、人々がワクワクする未来を描き、語れているか」


文化は、良くも悪くも過去をひきづっている。

新しいものを創っていく、未来を描く、と言うより
古きを守って継いでいく、過去を体現していく
そんなことのほうが要素として強い。


逆に、AIだとか宇宙産業だとか、そういう分野に関しては、多くの人がそれを考えるだけでワクワクしたりもっと便利な世界を想像したり、未来を描く。


彼はそんなことを話をしている中で、最後にこう締めくくった。

「僕たちが未来のことを考えられていないことが、悪いと思うんだよね。どうしても昔の話をしがちな世界だけど、過去に固執せずに、未来のことを考えて動いていかないとね。」



そんな話を聞きながら、伝統が未来を創っていく、そんな世界に、私はワクワクした。
そして、私も伝統で未来を考えていけるようになりたいなと、心の底から思ったのだ。

※彼が長年やっている1年に1度の演奏会の全体設計をやらせていただくことになったので、既存の演奏会とはまた違う要素を組み込みながら創らせていただきたいなと。

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