自己完結型の役割分担なのか、協奏型の役割分担なのか。




今朝、こんな記事を読んだ。

集団的創造の時代の知は、手を動かすことでしか生まれない——チームラボ代表・猪子寿之
http://www.dhbr.net/articles/-/4912


その中でも今回はこちらに私の目が向かったので、紹介する。


 現代の知は専門化され、また複雑化しすぎているので、机上で想定するだけでは発見できなくなっていきます。実際につくるプロセスのなかでの試行錯誤でしか発見できないと思います。ただし、単に手を動かしてモノづくりするだけの人からも知は生まれない。いわゆる職人というときの概念とは違います。どちらも手を動かすことは同じですが、そこに汎用的な知を発見できるかどうかの差があります。

 日本ではこれまで、エンジニアにせよクリエイターにせよ、その人自身がすごいモノをつくれる“職人芸”を重視していたように感じます。そうではなく、プロセスを通して、そこから汎用的な知を抽出できるかどうかがすごく重要です。そして、そうして発見された知は組織の中で積み上がっていきます。これからは、それができるかどうかだけが組織の強みになると思います。たぶんね。


これ、ここ数年でとても思うこと。猪子さんが言語化してくださっていて、とても嬉しい。


私が今所属するエール株式会社では、入社以来ひたすら事業開発を担わせていただいてきた。
(元々事業開発の経験があったわけではなく、一番古株なのでそこにタッチさせていただくしかなかった、という感じ。事業開発というと聞こえは良いのかもしれないが、まあ要するになんでもするということだ。)

この前、ふと思い立って創業時から今までのサービスの変遷の中で、概念やサービスの中身など、ピポットと言ったら大袈裟かもしれないが、大きく変えてきた回数を数えたら、私がその時、瞬時に頭に浮かんだものだけで11回あった。この2年間でである。

これが多いのか少ないのかはもはやわからないのだが、でもただ1つ言えるのは、私の専門はここ、私の役割はこれだから、と区切りをつけていくのは事業立ち上げにおいて、そして手を動かしてモノづくりをするにおいて、とても害ある考え方だということ。


事業をこうしていこう、こんな世界観を創ろう、そんな目指す物がある中で役割をむやみに引くと、互いの知を組み合わせることが困難になる。
もちろん、専門や役割が悪いわけではない。それを区切ることで、互いの取り組むことが明確になり、かつその壁を超えていつでも協力し合う体制・それぞれのマインドが作られ、その後も活かされる知が構築されるのであればそれは大事なことだと私も信じている。

私が上記で害ある考え方と言っているのは、ここは私、そこはあなた、それだけやれば良いよねという感覚になることだ。専門や役割で分割した時に、気をつけて気をつけて進めていかねば、すぐにこんな状態になるはずだ。そして、そうなると協力することも、互いを想う気持ちも、その後も活かされる知も構築されない。

というのも、正直弊社でもよくその害に陥ることがあるからである。今は以前よりかは少なくなってきたかのように感じるが、変に役割を分けて協力体制も敷けず、互いに意思疎通が図れずギクシャクしたり、うまく物事を進められないことが多々あった。
その時期は、とても辛いモノである。事業開発も遅遅として進まず、サービスの提供にも様々な弊害が生まれる。


1つのモノを手を動かして作っていくにあたり、1人1人が役割を持つというのはとても大事だし、必要なことだ。
だが、それが自己完結型の役割分担なのか、協奏型の役割分担なのか。

それで事業の進み具合は随分と変わるのではなかろうか。














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