『LEGO』と『茶道』に共通する手法から学ぶ、創造力を発揮するために必要なこと



LEGO。
幼少期に遊んだ経験のある方も多いであろうと思いますが、皆さんはLEGOを使ってどんなものを作りましたか?


船、飛行機、お花屋さん、ケーキ、、、
小さい頃はどんなものでもLEGOで作っていたかもしれません。



というのも、本日は弊社合宿にて、LEGOを用いて「2018年4月のあるべき姿を考える」ということをしていました。

こちら、『レゴ®シリアスプレイ®』という手法でして、LEGOを使いながらそこに参加する面々の内面を引き出し、チームビルディングをするというものなのです。

具体的には、こんなイメージです。



そして、詳細は提供元から引用してきましょう。

レゴ®シリアスプレイ®では、各人の心の奥に隠れた内観を、ブロックを用いて、立体化された作品を創り、可視化させます。
各人が作品を通して内観を語り、他のメンバーは作品を様々な視点から観察し、物語を聴き、質問を行うプロセスで、各人が自分の内観、他者の内観に気づきます。
更に、お互いの作品を統合するプロセスで、お互いの内観をつなぎ、一つのチームとしての新たな内観、行動指針を創ります。

LEGO®Serious Play®? - レゴ®シリアスプレイ®とは? ー ロバート・ラスムセン・アンド・アソシエイツ
http://www.seriousplay.jp/seriousplay3.html


この取り組みを本日1日中行なっていたのですが、その中でも何とも面白いのは、1つのブロックやパーツに対する解釈が人によって本当に異なるということなのですよね。

青くて細長いブロック1つをとっても、『ある場所とある場所にかかる橋』だと捉える人がいれば、『人と人の心を繋ぐもの』だと捉える人がいます。
白くて平べったいブロック1つをとっても、『○○な人たちの居場所』と捉える人がいれば、『内面を表現するための広がり』と捉える人がいます。


それでは、少し話を変えましょう。
以下の広告はLEGO社のものなわけですが、それぞれどんなことを言いたいか、皆さんお分かりですか?


こちら、LEGO本体だけではなくその影を見ていただきたいのです。


上は船、下は飛行機の形になっていますね。

もちろん、見る1人1人で捉える意味は異ります。
ただ、私はこう思います。
こんなにもシンプルな2つブロックの塊でも子供の手にかかれば船にだって飛行機にだってなるってこと、その想像力って本当に素晴らしいし、どんな環境にいてもどんな年齢でも持ち続けたい感覚だよなあ、と。

この広告こそ、上記の「人によって解釈が変わる」という面白さを表したものです。
このように2つのブロックを通して何かを見るということ、言い換えると物を『見立てる』ことで、人の思想を無限に表現することができる、これがLEGOの本質的価値なのだと思うのです。


※他の広告を見たい方は、ぜひ以下のページを御覧ください

■想像力がかき立てられる!LEGOの本質を見事に表現した広告まとめ - LEGO IMAGINE -
https://design.style4.info/2013/01/lego-imagine/



ここで紹介させていただいた『レゴ®シリアスプレイ®』での『見立て』。
これに関して、1つ有名な話を紹介させていただきます。

物を何か別のものに『見立てる』というのは、西洋では元を正せばマルセル・デュシャンの『泉』が始まりと言われていますね。1917年の作品です。
皆さん、ご存じですか?



便器をアート作品として捉え、様々なる波紋を生んだ作品です。

こういう作品を総称して『コンセプチュアル・アート』と呼び、デュシャンはこの流れを創った芸術家として『コンセプチュアル・アートの父』と呼ばれることになるわけですが、彼はこんなことを言っています。

 『芸術とは、見る側が決めることである』


まさしく、上記で挙げたLEGOの広告そのものではないですか?



さて、LEGO、そしてデュシャン、ときたところで、日本に住む方ですと疑問に思うかもしれません。
日本もデュシャン以降にこんな考え方が輸入されて、このような作品が増えたり流行ったりしたのかな?
と。

実は、デュシャンから約350年前、この『見立て』という言葉を使い日本中を席巻していたのが千利休なのです。

元々『見立てる』という言葉の発生は、「古事記」まで遡ります。
島に降りたイザナギのことを記したものでして、「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」と、この『見立て』は、「あるものの中に、そのものの中には存在しない要素・考えを与えること」という意味で使われていたそうです。

元々日本古来の自然信仰、八百万の神というような考え方は皆さんもご存知かもしれません。何にでも神様がいると考える、木々の一本一本に神様がいる、食べ物の1つ1つに神様がいる、それこそまさしく、『見立て』に他なりません。(『みたて』もちろん信じていたのでしょうし、私もその考え方には完全に賛同です。)


そして、その考えを考えに留まらせず、目に見えるインターフェイスを構築したのが、利休でした。
利休は漁師が使う魚籠(腰のあたりにつけて、獲った魚を入れておく籠/以下に写真記載)や竹で作った花入(花を入れる筒)に、素晴らしい価値があると定義したのです。



それまでの茶道では唐物(唐の国で作られた器や水差しなど)が大層価値あるものとされ、それ以外を使うだなんて単純に自らの力の無さ、センスの無さを見せびらかしてしまうものだという認識が持たれていました。
それが、利休の登場により、それまで無価値だったものが圧倒的な価値を持つようになります。

利休が魚籠や竹花入の中に求めたものこそ、利休独自の美意識。
その中に、本質以外を全て削ぎ落とすことの大切さ・華美であることが根本的な価値ではないというような感覚を研ぎ澄ませて入れ込んでいったわけです。
その感覚をそれらの物に憑依させること、それこそ日本が物を『見立て』た始まりです。



ここまで考えを進めていくとどうでしょう。
『LEGO』と『茶道』には、2つのブロックを飛行機として、1つの魚籠を高価な花入として、そういった『見立てる』という共通する手法がありますね。
そして、その手法を通して両者が実現しようとしていることこそが、『ものの価値を新たに創造する』ということではないでしょうか。

元々、レゴ®シリアスプレイ®は新たな発想をしたり心の奥底にある価値観を外に出して全員で統合するためのもの。
元々、茶道は新たな繋がりを創ったり自身の新たな一面を浮き彫りにするためのもの。
一見違うもののように見えますが、その本質的なところは意外と同じだったりするわけです。


このように、『LEGO』と『茶道』この『ものの価値を新たに創造する』ということは、様々なものを『見立てる』ことから始まることがわかってきます。
もし仮にLEGOのブロックがただ単にブロックでしかないように取り扱われていたら今のLEGOはないでしょうし、茶道の道具が単に高価なものだけしか使えなかったら今のように一般大衆の世界に広がることもなかったでしょう。

ぜひ毎日少しでも良いので、物を見た時に何かに『見立て』てみてください。
『見立てる』ことをどうやって行えば良いかわからない、そんな声もあることと思います。
そんな時は、ぜひLEGOの広告を見ながら、ぜひ利休の道具を見ながら、考えを馳せてみてください。

きっと、そこに『見立てる』ヒントが見つかるはずです。


※ちなみに個人的には、LEGOで週何個か作品を作る、茶道や華道を週1で学んでみる、といったことは創造力の発揮のためにとても良いインプットになるのでは、と思っていたりします。



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