労働者に感性は必要なのか?〜自己タスク外ブラックアウト現象〜




先日、とある大学4年生2人に誘われて中華を食べに行く機会がありました。
私の友人の後輩、そして司馬遼太郎の『世に棲む日々』が大好きという繋がり。

その時、ビール片手に彼らが語り始めたのは、"労働者は感性を持つか持たざるか"、ということ。



『ねえ北村さん、僕たち来年から仕事を始めるわけですけど、正直怖いんですよね。どんなに血気盛んな先輩とかでもすぐに潰れちゃって会社辞めるっての多いですし、いろんな病気だなんだになる人も多いって聞きます。もしかしたら自分がそうなってもおかしくはないですよね。働き始めたら、多分いま楽しいと感じていることも、そう感じれなくなるんじゃないかって、怖いんです。』

「好きなものを好きだって感じれなくなるのが怖いの?」

『そうです。もっとざっくり言うと、、、自分の感性っていうんでしょうか。そういうものがなくなるのかなって。もちろん、自分の感性を活かして仕事をしている人、そういうことを大切にして楽しそうに働いている人がいるってことも分かってます。でも、最初からそうなれる人なんてほんといないじゃないですか。僕は、多分、不器用だから、最初はずっとずっと潜水艦の如く下の下を突き進むと思っていて。』

『実際、大人たちに会って、楽しそうにしている人なんてほんとわずかで、だいたい楽しそうじゃないです。んで、なんか見ている世界が仕事ばかりなんです。みんな仕事の話ばっかりします。あ、仕事の話ばかりなのはいいんです。それを楽しく話しているんならいいんですけど、なんだか仕事を中傷するような感じで、「まあそんなくだらないことに時間費やしてるんですよね」みたいに言う人ばっかりなんですよ。お金があってなんでもできる人でも、プライベートは豪遊して楽しいけど、仕事はひたすらやって稼ぐツール、みたいな。』

「仕事を楽しんでいる人が多くあってほしいってこと?」

『はい。楽しんでいて欲しいし、それこそが感性を活かすってことなのかなって』

「なるほどね、、、感性ってどんなものなんだろ」

『そうですねえ。。。正解じゃないかもしれないですけど、感性って、物事をオモシロく感じれる心なのかなって。』

「物事をオモシロく感じれる心、ね。」

『うん。そして、その心をどこかで落としてきてしまっている大人が多いんじゃないかなって。だって、どんな物事でも、自分の考え次第ではオモシロくできると思うんです。僕が言ってること、違いますかね?』

「いや、僕もそう思うよ。」

『ちなみに北村さんって、一緒にいる人たちは楽しく働いている人が多いと思うんです。でも、お仕事ではいろんな大きな会社がお客さんなわけじゃないですか。大人って、どのタイミングで物事をオモシロく感じれる心を落としちゃうんですか?僕はそれが知りたいんです。』

「そうだね、いくつかあるかもだけど、まず学生時代と比べて変わるかもしれないのは、まずは"目の前の仕事に追われ続ける"ってことかな。最初は誰でもできないからさ、今すぐやらなくちゃいけない仕事もできないわけよね。で、その目の前の事柄ばかりに目がいくようになると。でも、超近距離だけ見るというのは癖になると思うんだ。なんどもなんども目の前の物体だけ見てたら、急に遠くにある景色を見ようとしてもぼやけるし見えにくいでしょ。あんな感じ。次第に、超近距離以外見えなくなるのかもしれないね。」

『、、、、、、うわあ。まじ怖いですね。それはなりたくない。』

『、、、なんだか自分がそうなる想像ついてしまって嫌なんですけど、それでも僕はその感性は失いたくないんです。こう言っているのも、もしかしたらすでにその感性が失われる始まりなのかもですが、、、』



彼らが言う『感性』。

物事をオモシロく感じれる心、という解釈が正解かどうかは分かりませんが、それでも彼らがそう思っていることは彼らにとって正しいのでしょうし、そう思っているのは大人を見て言っているのですから、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

労働者に感性は必要なのか?

彼らは「必要だ」と感じています。
私は、物事をオモシロく感じれる心という意味であるならば、同じく「必要だ」と感じています。
感性というのはとても広い言葉なので、そこの研究はし始めたいなと思いつつ。


そういう風に大人になることに恐怖を感じながら人が大人になっていくというのは、
とっても嫌だし、変えていかねばな、、、とそんなことを思う、涼しげな多摩川の川沿いにて。


コメント