学生・社会人それぞれ1度ずつ『鬱』になった男の復活劇ー第1幕『自分を守るための5つの逃げ方』




先日、こんなブログを読みました。



■「逃げる」ための境界線をもつことが大切という話
http://chibiblog.hatenablog.com/entry/2017/09/26/085121


こちらの中で紹介されていたのは、先週末に公開になったNew Smapの公式サイト「新しい地図」の動画メッセージです。




この中で、『逃げよう』というメッセージがありまして、このブログでは、こんな風に書かれています。


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逃げよう。

どうしてもネガのイメージです。

でも、彼らは「逃げよう」と言います。
そのメッセージに何かが引っかかりました。

〜中略〜

しかし、どうでしょう。「逃げる」というのは本当に悪なのか。

自分が思うに結論、そんなことはありません。

その場を逃げなければ、勝てない戦もある。最後に勝てばいい。
大事なのは、「逃げる」境界線をどこに置く、という点ではないでしょうか。
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『逃げる』って言葉はどんな印象のある言葉でしょうか。
このブログの方がおっしゃっているように、どちらかというとネガティブなイメージですよね。


今まで『逃げた』ことがなく全てやりきった方からすると、ありえない言葉なのかもしれません。
はたまた、『逃げ続けている』と自分に感じている方からすると、見るたびに嫌な気持ちになる言葉なのかもしれません。


ちなみに私自身はどちらかというと、後者のほうが近いような気がします。

思い返してみると、『逃げている』自分を過ごしてきた時間のほうが、この人生の中では長いなと。

幼少期は、サッカーが嫌いで逃げて、
中学生の時は、勉強が嫌いで逃げて、
高校生の時は、人間関係から逃げて、
大学生の時は、苦手な人から逃げて、
社会人1年目の時は、最初に入った会社から逃げて、

そんな感じ。



特に、自分の人格形成にかなりの影響を与えたのが高校生の時と社会人1年目の時でしょうか。

それぞれ鬱にまでなって、結構自分の内部から崩壊していった時期です。

今となっては「あんなことがあったから今の自分の考え方・性格になっているわけだし、まあなんだかんだよかったかなー」とか気楽に考えているのですが、
あの当時は凄まじくきつかったのは鮮明に覚えています。


ということで、今回から以下のように3回に渡り、いかに『鬱』と向き合い戦ってきたのかを記して行きます。
ぜひ、同じような状況の方に、同じじゃないけど『逃げたい』と思われている方に届きますように。

第1幕:『自分を守るための5つの逃げ方』
第2幕:『自分の恐怖との向き合い方』
第3幕:『自分の日々を楽しくする仕組み作り』



第1幕:『自分を守るための5つの逃げ方』


例えば、高校3年生の頃を思い出してみます。
学外でしていた活動(ちょうどその頃、学生団体という概念が生まれた頃です)にて、その団体の幹部をしていたら突如クビになって、そこの友人だと思っていた数十人が一斉に友人じゃなくなるという経験をしまして。
元々人とのコミュニケーションは苦手でしたが、そこで成功体験を積んでいたのもつかの間、その友人だと思っていた人がごっそり友人ではなかったと認識した時、ちょっと壊れてしまいました。

今となっては「弱かったな自分」とか思いますが、友達や恋人みたいな関係がほぼ世界の全てだったあの頃、とても脆くサクッと壊れました。
(そして、対人恐怖症と吃音症を併発するというとても面倒なことにもなりました。)


私の高校3年生の残りの時間と、大学生活の半分くらいは、その挫折と向き合い続ける期間だったわけですが、とりあえず自分を守ることに必死でした。
自分の心はすでにちょっぴり悪い状態に陥ってましたが、それ以上いくと本当に自殺モードだったので、それだけは避けようと必死でした。


そんな時に、自分を守るために私は学校や勉強や同級生などの諸々の現実から逃げ続ける日々を送っていたのですが、その時にはこんなことを意識していました。


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1. 誰の意見も聞かない

何か他の人と違う状態になると、人はとやかく言います。学校に行きなさい、勉強しなさい、みたいに。
噂も耳に入ってきますし、変な雰囲気も感じます。
特に敏感になっているその時期に、そんなものを浴び続けたらもっと崩壊してしまいます。別に意見なんて聞かなくて良いのです。自分が良いと思う方向を向き、日光の『見猿聞か猿言わ猿』かのように閉ざしましょう。閉ざす期間も大切です。
みんながみんな共感してくれるわけでもなければ、正直同じこの病気の状況に陥ったことがある人でなければ分かるはずがありません。


2. 人工物の中ではなく、自然の中に身を置く

これは個人的な趣向もあるかもしれませんが、人工物の中にいると人を感じます。私の場合は人を感じるのが何より嫌だったので、できるだけ人から全て遠ざかるようにしていました。都会のわりに、たまたま私の家の近くには森や林や川が多かったのでよく1人でポツネンと佇んでいたり、はたまたお寺や神社の境内でぼーっとしたりしていました。この時が、本当に心休まる時間だったのを覚えています。


3. 何か微塵でも欲の湧く所があればそれにすがりつく

上記のブログでもメンタルにくる兆候として「没頭していた趣味に、没頭できなくなったら注意」と書かれていますが、まさにそれ。好きなことに好きだと感じれなくなります。
ただ、もし何か1つでも、これがしたい、ここに行きたい、そんな気持ちがあるのなら、そこから手繰り寄せましょう。微塵かもしれないけれど、その好きという気持ちが気がつけば自分の逃げ場になったりします。むしろ、これが見つけられないと多分ドツボにハマり続けます。何か、何か1つだけでも見つけたいです。
私にとっては、それは「人が多くない、というかいないところにいる」ことだったような気もしますし、無宗教に近い自分ですが「教会とかお寺とか神社でぼーっとする」ことだったような気もします


4. 行きたくない所には行かない

もはや言わずもがなですが、無理していくと、崩壊を助長します。自分の心が向かわない場所に行くのをやめます。行かなきゃいけないから、、、と自分をさらに追い込んでいくケースがあるかとは思いますが、やめた方がいいです。何が何でも逃げる、そんなことが必要な時期なのです。特に働かれている方だとどうしても行かないといけない状況ってあると思うのです。仕事だから、家族がいるから、、、と。でも、まだまだ人生長いはずです。その時だけ頑張って済む話ではありません。逆に考えて、長い人生、これ1回くらい行かなくても大丈夫かと考えてほしいのです。


5. 人から必要とされていない人間、だなんて思い込まない

人は、人の役に立つこと、人に対して貢献できること、人と繋がっていることなど、相手がいて、その相手と相互に心地よい関係を作ることを望みます。でも、それは『鬱』の時には難しいかもしれません。どうしても、人と関係を作ることが怖いのです。ただ、人と関係を作ることが怖くても、人と関係を結びたい、結んでいない自分はダメな人間なのだと思い詰めることを、よく見ますし自分もそうだった気がします。
私の好きなマンガで昔ジャンプで掲載されていた『D.Gray-man』というものがあるのですが、その中で主人公がこんなことを言ってました。『理由があれば生きられる・・・ 理由の為に生きればいいじゃないですか』これ、私の解釈ですが、生きる理由がなくてもその理由を探すために生きるというものいいんじゃないか、その道筋を辿っていると考えても良いのではないか、とも取れると思ったのです。
人から必要とされているかされていないか分からなくてもいい、人から必要とされる人間になる道のりを歩んでいるのだと思って逃げれば良いのです。

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逃げましょう。
逃げても、ちょっぴり遠回りするだけです。

ただ、逃げ続けているだけでは、事態が好転することがないというのもまた事実です。
目の前の現実から逃げ続けても、『鬱』からは完全に逃げることはできないのです。
どこかで対峙しなくてはなりません。

そんな恐怖との対峙の仕方について、次回記したいと思います。


ということで、 To be continued...




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