『感性の世界を取り戻していく』という感覚。




本日、朝バスに乗っている時に私の前にいた同い年くらいの女性が『感性の構築〜〜』という本を読んでいるのを目にしました。

その時、ふと気づいたことがあります。

「最近、私は感性の世界の中に戻ろうとしているのかもしれない」と。



こう思った背景について、このブログでは書いていきましょう。


私は普段、本業では組織開発の仕事をしています。
それは今までのブログの記事の中にも多々記してきました。

この仕事の中では組織内のマネジメントやコミュニケーションなどを取り扱うわけですが、私はその中でも組織人 1人1人の細やかな感情や感覚、気持ちを扱っています。
それぞれが自身の望む道に進むためにその見えない心を見てサポートさせていただく、という日々を過ごしています。
単に1人1人の夢を追いかけるのとは異なり、いかにその1人1人がうまく組織ダイナミズムを生み出せるか、相乗効果を図れるか、マネジメント特性やコミュニケーション特性をいかに最大限引き出しながら組織を構築するか、そんな何とも定性的な世界で生きています。


ただ、そんな仕事ながら、今まではこれらをどのように定量化するか、理論化するか、システムにするか、とかなり理路整然とこれらを行おうとし、私は理系出身ではないながらこの思考がかなりハマったのか、かなり合理的にこれらを捉えるような日々を送ってきたようにも思います。(機械工学の研究出身の社長の影響が強いのでしょうか)また、日本ではまだまだですが、特にアメリカでは組織論などどんどん研究が進んでいる分野でもあります。
そして、私はかなり管理的かつ戦略的な思考をするのが好きですし、たぶん得意です。

もちろん、心は移ろいゆくものですし、数字で表せるものではありません。
コントロールできるものでもないし、コントロールするものでもありません。
理路整然とした合理的なものではありません。
これらを理解していないわけではないですが、こういった状況がこれまで3年と少し働いてきている中で形成されてきました。


ただ、それまでの私がそうだったかというと、結構逆だと思います。

ハリーポッターやロードオブザリングのようなファンタジーの世界が大好きでしたし、ライオンキングやトイストーリーのような空想の世界も大好きでした。
そして何より、日本古来から続く文化が好きで、そのあまりに感性的な世界にどっぷりと浸り続けることが何よりも心地よいものでした。
茶道の中でどの瞬間が一番好きかと聞かれた時に返答していた内容も、あまりに感性的であまり共感もされなかったものです。
(3畳半ほどの薄暗い茶室で行う濃茶の点前の最中の礼の瞬間が、何よりも快感でした。自分と外の世界の境界線がわからなくなるような、溶け合っていくような、全てが同一化していくようなあの得体の知れない感じが本当に本当に大好きだったのです。と言っても理解し難いかと思いますが、、、)



ですが、新卒にて働き始めると、何ともシステマチックというか、管理的な思考しかなくなってしまい、最初は訳がわからなくなってかなり混乱したのを覚えています。
前職の時はその感覚の使わなさ、思考の仕方に全く慣れずにネガティブな気持ちしかありませんでしたが、今の仕事になってからはなんとも自由にやらせていただいた結果、好きだし得意だしとてもポジティブなものとして捉え、今の思考に至っています。

ただ、このブログを始めて、そしてこの30日間はとくに『茶』について書き進めている中で、次第に昔の感覚というか、感性というか、自分の体に久々に染み渡ってきたように感じています。


今までは、100%ほどをシステムの中で捉えるようなことをしてきたような気がしています。
ですが、今の仕事で扱うのは、もともとは見えない心の中。

基本は別に自身の得意な方向でやれば良いと思うのです。
でも、その中に一点でいい。一点の感性だけでいい。その一点の感性を、しっかりと入れ込んで日々心に向き合うこと。

そこに、私の日本の文化と向き合ってきた時間と質が試されるような気がしていますし、その一点こそが、私自身の仕事を、そして生活を変えていくような気がしています。
(この発言自体がもはや感性的かもしれませんけど)



「最近、私は感性の世界の中に戻ろうとしているのかもしれない」

今朝、それをバスの中で思ったことは何か自分にとって良き兆しのように感じます。

大きな湖に、一滴の雫がこぼれおち、その波紋がゆっくりとゆっくりと、でもその湖全ての行き渡る。
そんな光景を、私が一点の感性を取り戻すことで実現できるような世界と重ね合わせるのです。

どんな風に私が変わっていくのか、私自身なんとも楽しみでなりません。

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