『ことば』を相手に伝える時に必要なのは、相手を探ることなのか、それとも自身を叩きつけることなのか。




先日夜、寝れずにテレビをつけた時のこと、ちょうど『言の葉の庭』をやっていた。

『言の葉の庭』をご存知だろうか。

言の葉の庭


昨年大流行となった『君の名は。』の新海誠監督の前作だ。

メインの登場人物は2人。
靴職人を目指すタカオは、雨の日は午前中学校をサボって公園でいつも靴のことを考えている高校生。
ユキノは、なぜかタカオが行く公園にいつもいてお酒を飲んでいる女性。

なにはともあれ、まだ観ていらっしゃらない方は、予告編をぜひ。





この映画、私は大好きで何度も何度も観ているのだが、中でも最後に雨が降る中、マンションの階段の踊り場で、タカオとユキノが言い合うシーンがとても印象に残っている。


タカオ:「あんたは一生ずっとそうやって、大事なことは絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっとひとりで!生きてくんだ!」

ユキノ:「毎朝ちゃんとスーツを着て、学校に行こうとしてたの。でも怖くて・・・どうしても行けなくて。あの場所で、私、あなたに救われてたの。」




先日改めてこのシーンを観た時、私は最近読んだとある本の一部分を思い出した。


話すとは、部屋の中でか細いこえで深刻めいて論理やイメージを探り合うことではない、からだ全体を振り絞って「他者」へ中身を叩きつけることだ、ということを、私はこのときはっきりと見た。

こちら、竹内敏晴さんが75年に出された『ことばが劈かれるとき』の77ページに書かれた文章だ。

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)


竹内さんは幼少期から言葉を発することができないという自分を克服して、同じように言葉の発声力や脳の発達が遅れている子供に対してプログラムを作ったり、解決のための研究をしたり、または演劇及びその指導をなさっていたという方である。

(竹内さんの様々な人に対しての向き合い方、言葉の創り方は本当に繊細で丁寧で愛に溢れており、「言葉」に興味のある方にはぜひオススメだ)




『言の葉の庭』の最後のシーン、今までユキノに、タカオに、それぞれ言えなかった自分の声をまっすぐに届けている。ぶつかり合いながらも、それぞれが発することはすべて彼らにとっての真実だ。

これこそが、竹内さんの言う『話すとは、からだ全体を振り絞って「他者」へ中身を叩きつけること』というまさにど真ん中なやりとりではなかろうか。





テクノロジーの発達で、あえて誰かと何も話さずともメールやチャットなどで他人とのやりとり全てを完結させることができるような時代になった。
昔のように強い言い争いをすることが非とされるような風土の組織も、昔と比べたら増えてきた。
もちろん、それがとても便利であり、時間の有効活用になり、ノンストレスな状態を構築することができる現在最良の手段なのかもしれない。

でも、それは本当に良いのだろうか。
論理やイメージや相手の心の中をこっそりひっそりと覗きにいくようなやりとりではなく、互いに『自身』をぶつけ合うようなやりとりがあるからこそ、本心というものを伝え理解することができるのではなかろうか。


少なくとも私は、からだ全体を振り絞るようなやりとりを、これからもできるような生活をし続けたい。
そう、感じた。





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