『信じる』だなんて偽善で虚構なのかもしれないけれど




人の顔が認識できない、、、

そんなこと、今まで経験したことがあるだろうか。




去年公開された映画で、『聲の形』というものがある。

全国どの映画館でもやっていたようなものではないので誰しもが知っている映画ではないと思うのだが、私が8回劇場に足を運んだ『君の名は。』よりも実は『聲の形』のほうが自分に合っていた。

 映画『聲の形』DVD


あらすじをとあるページから引用しよう。

小学校の時に聴覚障害を持つヒロインに酷いイジメをしてしまった主人公が、高校生になり、彼女を捜し出して謝ろうとしたことから止まっていた時間が再び動き始めるさまを描く。楽しいことが全ての小学6年生のガキ大将、石田将也。ある日、耳の聞こえない少女、西宮硝子が転校してくる。すると将也を中心にクラスメイトたちの硝子へのイジメが始まる。やがて硝子は転校を余儀なくされる一方、将也はクラスメイトたちの裏切りに遭い、イジメ問題の責任を一人で背負わされ、周囲から孤立することに。それから5年、すっかり心を閉ざしたまま高校生となっていた将也は、ある決意を胸に硝子のもとを訪ねるのだったが…。
http://tsutaya.tsite.jp/item/movie/PTA0000R7QR8#a_story


予告編を観ると分かりやすいので、こちらもぜひ。






この作品の中で印象に残るシーンはたくさんあるものの、今回はその1つを取り上げてみよう。


人の顔に「×」がついている、こんなシーンがある。

シーンというより、作品通して半分以上、多くの人の顔にはこの「×」がついている。

他者から疎まれ、嫌われ、避けられ、罵られる主人公が、他者から自分を守るため、他者と自分との関わりを消すために、他者を見ることも他者の声を聞くことも辞める。

それを表す象徴的なもの、それがこの「×」だ。







この映画、冒頭で私は「自分に合っていた」と評した。

それはなぜか。




あまりにも、自身の過去と被る部分が多く、自分の心を表現してくれている気がして、たまらないほど心に突き刺さったからだ。


先日私はこんなブログを書いた。

言葉を失ったとしても、言葉を発する努力をすることでしか、失った言葉を取り戻すことはできない。
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/06/blog-post_24.html


こちらでは私が吃音症のような症状になったということを書いたが、この同時期に、私は上の画像の「×」と同じようにしか人を見れなくなったことがある。

完全に同じく「×」を人の顔に貼っていたわけではないのだが、あの頃おそらく、正確に言うと人の顔を見ることができなくなっていた。


あの頃、人の視線を一瞬でも感じると「ああ自分はいてはいけない存在なんだ」と思い、

人の笑い声が聞こえると「これは自分を見て笑ってるんだな、もういっそのこと自分の存在を消せればいいのに」と感じ、

人がきれいだと言うものを見ても「きれいって言うけれど、そもそもきれいってなんだろう。色もよくわからない。」という状態。


あまりにも被害妄想が激しいといえばそうなのだが、あの頃は視界も、声も、色も、私の中には何も入ってこなかった。




ただ、上に記したブログでも書いたが、私には変わるタイミングがあった。
何もない世界が色づき、笑い声に満ちた瞬間があった。

一度目は、人を信じた時。

二度目は、自分を信じた時。


この『聲の形』でも、終盤に「×」が周りの人の顔から剥がれ落ちていくシーンがある。

このシーンを見た瞬間、あの時のことを、私は鮮明に思い出し、泣いた。



『信じる者の幸福』

私が一番好きな花、アヤメの花言葉だ。花言葉なんて知る前から、幼少期からなぜか大好きだった花。
生まれて初めて、自分で買った花。



「信じる」だなんて、たった3文字の言葉だ。

青臭く、偽善っぽく、多少の虚構を含んだ言葉かもしれない。信じたからといって、何かが好転することが約束されるわけではない。

だがしかし、真剣に、真摯に、真心を込めて、信じる。

それがきっと、他者から見たらささやかでも、自分にとって見たらとても大きな幸福に繋がっていくはずだ。



少なくとも、私はそう信じている。



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