人は自分の"足りないもの"を活かして、別の多くの"足りないもの"を埋めることができる。




私は幼い頃、自分の足りないところばかりに目がいく子供だった。

というのも、生まれつきあった身体的な欠如がとても影響している。


ー自分の"穴"について

私は生まれつき、左胸にあるはずの第2、3肋骨がない。
どんな影響はついぞ分からなかったが、左胸のあたりがベコっと凹んでいる。
かつ、その影響で左上半身の骨格形成に影響があり、第4〜12肋骨までが前方と左に大きく湾曲している。

※肋骨の構造については以下をご参照のこと。



肋骨(ろっこつ)は、胸部内臓を覆う骨です。脊椎から内臓を取り囲む形でついています。
全部で二十四本で両側に十二本ずつあり、それぞれ頭側から数えて第一肋骨~第十二肋骨と呼びます。
肋骨全体としては肺と心臓をその内部に抱え、肝臓がその内部にほぼ収まる。
ー横浜アロハピラティス



現在では、生活に影響はほぼない。
ただ、小さい頃はそうではなかった。

身体的な影響としては、
心臓あたりを守る骨格がないからこそ、サッカーボールやバスケットボールなどの大きな物体が強くあたると息がしにくくなったり、悪いと意識を失う。

心的な影響としては、
上半身への強い衝撃に対しての恐怖感、何かあると保健室からクラスメイトを眺める孤独感、着替えやプールなどで骨がないのをからかわれることに対しての拒否感。
体育は私にとって拷問に近かったし、着る服によってはプリントがかなり歪むので、歪まないものを探すのも嫌だった。
また、成長していくと骨格も同じく成長し、自身の骨格がどのように歪んでいくのか分からず、もし悪くなりすぎた場合は左上半身の骨格を削るか骨格ごと矯正器具をつけるとかの大手術をするということを幼少期から聞き、とても怖かった。

あと、自身の将来の夢にも影響があった。
小さいころに飛行機が好きで、パイロットになりたいと思っていたことがあるのだが、
私生活への影響がなくとも身体で欠損部分があるだけでパイロットとして数百人の命を預かる仕事ができない、受けても落とされるということを知り夢が消失したり(今どうか知らないが)。

そんな影響で、私は自分が「できないこと」「無理なこと」「苦手なこと」「やりたくないこと」「否定されること」という、ネガティブなところにすぐに目を向けるような癖がついた。

どうにもこうにも、常に一緒に生きて行かざるを得ないものとして、私の左胸には大きな穴が空いていた。



ただ、今となってはこの欠損に対しても感謝しているのだ。


自身の周りを観察しながら自分の穴に対する周りの感情を探る、ということをずーっと続けていたら、
目に見える範囲を超えて、その場にぽっかり空いた穴に気がつくようになった。

それは、人のマイナスな感情だったり、それだけではなくその場に足りないものだったり、まだ誰も手をつけていないものだったり、様々な穴だ。




ー自分の"ネガティブさ"について

また、私はそんな肋骨の影響なのかネガティブなことばかり思ってしまう自分を変えたくて、大学3年生の頃に1人でやっていたことがある。
それは、「強制ポジティブ変換法」である。(北村命名)

まずはノートの左側に今日あったネガティブな思考・行動を全て記す。
「あの人のこういうところが嫌いだ」
「自分はこれとこれができない。そんな自分を認めたくない。」
「これはほんとなくなればいいのに。意味がわからない」
のようなものだ。

その言葉を、全てポジティブに転換してノートの右側に記す。
「あの人のこういうところが好きだ」
「自分はこれとこれがでいる。そんな自分を認めている。」
「これは本当にあってよかったものだ。これがあったから助かった。」
のような感じだ。

たまたま思いつきで始めたことなのだが、1年と決めて毎日続けた。

すると、面白いことに自分の思考が変わったのである。

最初は慣れないので変換すらできないのだが、慣れてくると、だんだんと書けるようになってくる。
そして次第に、他の人がネガティブだと思うようなことも特にネガティブに思わず、頭のどこかで右側のノートを想像しながら頭の中で記して、瞬間的にポジティブに変換するようになる。

どんなことが起きても、「まあすぐに○○できるし、大丈夫だよ!」「これが起きたってことは、次こっちができるようになるから気にせずやろう!」と言えるようになった。




ー自分の足りないものへの対処が、自分の特性を作ってくれた

そんな穴への感知能力とポジティブ変換能力という組み合わせは、個人的にはとてもしっくりきており、私の大きな特性の1つになっているように思うのだ。

周りの見えないところまで見渡して、その中でぽっかりと空いた穴を見つける。
見つけた後に、「見つけちゃったけど、これをこうしたら全然大丈夫だよね!」「まあそういうこともあるし、それ解決したらこんなことできるじゃん!」とポジティブな結果を無意識に探すことができる。
そして、そのポジティブな状態を目指して、穴をガシガシと埋めにいく。





これ、実は数年前からスタートアップをやっていて、とても当てはまっている実感がある。

今も然りだが、もともと歳の離れた面々とばかり一緒にやっていたので、自らと比べてしまうと経験量もアウトプットの質も圧倒的に違う。

その中で何ができるだろうと考えたときに、自身の上記の特性から、「あ、今あそこ足りないじゃん。でもそこ埋めたらこんなふうになってとってもいいはずだから、それはやろう!」「みんなとスキルも経験も何もかも違うけど、それでも彼らの手から溢れるものはたくさんあって、自分はそれをガシガシとやっていけばいいんだ!」と思うようになった。




近年有名になった「アドラー心理学」に、「劣等感」「劣等コンプレックス」という考え方がある。
アドラー心理学の初期の重要な概念であるが、その概念を紹介する「個人心理学講義ー生きることの科学」という本の言葉を書き記したい。


全ての人は劣等感を持っています。しかし、劣等感は病気ではありません。むしろ、健康で正常な努力と成長への刺激です。
ー『個人心理学講義ー生きることの科学』1996


劣等感は、それ自体が悪いものではない。
私がこれまで述べてきたような劣等感を、おそらく誰しもが別の形で持っているはずだ。
それを活かして生活するか、それを嫌なものとして捉え続けるか、どうせなら、自身への良質な刺激にしたいものだ。

少なくとも私は、自分の持つ"足りないもの"のおかげで、別の多くの"足りないもの"を埋めることができるようになった。
そう、思っている。


個人心理学講義―生きることの科学 (アドラー・セレクション)

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