目を閉じることは、問題の解決か、それとも問題からの逃亡か。




先日、Forbesという雑誌をパラパラめくっている時に、「ネット市場の差別をどう解決するか」という記事を読んだ。

その中に興味深い内容があったのでご紹介したい。


これは1960年代から最近に至るまで実施されていた差別に関する研究だ。

女性の割合がとても少なかった米国の交響楽団が、女性の楽団員を増やそうと取り組んだ
ものだ。

単純に結果だけ述べると、それはオーディションで候補者の姿を見なければ女性の楽団員は増えるというものだった。

以下に引用する。



1960年代中頃、米国の五大交響楽団(ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨーク、クリーブランド)に占める女性楽団員の割合は10%未満だった。
1970〜80年代になると、五大交響楽団は多様化を進める構想の一貫として(女性に対する)偏見の余地を残さないようオーディションのやり方を見直した。顔の見える形でのオーディションをやめ、スクリーンなどの遮蔽物の向こう側で候補者に演奏させたのある。

2000年に経済学者のクラウディア・ゴールディンとセシリア・ラウズが行った画期的な研究により、この遮蔽物方式が女性音楽家の成功率を160%増やしたことが明らかになった。しかも、2人は五大交響楽団の性別多様性増加のざっと四分の一は、この単純な見直しによるものだとしたのである。こうして厳密に音楽の能力に基づいて楽団員を選別するようになり、五大交響楽団の質は間違いなく向上した。

『ネット市場の差別をどう解決するか』ーレイ・フィスマン(Forbes 2016年12月)



さて、この方法を用いることで、多様性の確保、女性の割合を増やすということを実現しているということだが、これは何を示唆しているのか。
例えば、以下のようなことだろうか。

・能力だけで判断したら女性も男性も変わらない
・そもそも女性は楽団員に受け入れられにくい
・男性は女性と比べて外見で判断されにくい
・採用する側は全員保守的な男性である

この記事の情報量だけではそこまでわからないが、
ここである違和感が存在する。

それは、目的を果たしたがその根本を絶った訳ではないということだ。


そもそもの目的「多様化を進める構想」のためには、この姿を見えなくする、目を閉じるという行為は良いアプローチになったのであろう。

だが、本質的に「多様化を進める」ためには楽団内にあるであろう女性への差別意識というものを根本から絶たねば、また別の問題が起きる。

楽団に入って、演奏する間も練習する時も息抜きをする時も、全て目を閉じて声も交わさず女性か男性か分からない状態を維持するわけがないのだから、楽団員に女性が増えた時に、それに対して違和感を感じたりする男性陣が多く存在するわけだ。

そうであるならば、良い演奏だなんて当然のようにできないだろうし、いつまで経ってもぎこちないチームになるはずだ。
多様化を進めた」ことで実現したい未来なんて、実現するわけがない。


ただ、発想を広げてみると、これは何もこの交響楽団に限った話ではない。

いつまで経っても同じような大学出身の面々しか採用できない会社が、
「これからは学歴じゃなくて能力で評価しよう!」
と言い出して学歴を見ずに人柄や能力だけで採用し、多様な大学の出身者を採用することができた。

最初は「いやあ!いろんな大学の出身者が集まって違う人間がいていいなあ!」と言いつつも、結局組織内部には大学名・学歴重視の人間ばかりが集まっていて、入社した人がのけもの扱いにされたり高圧的なマネジメントをされたりして疲弊してチーム全体が険悪になり、、、

みたいな状況はざらにある話だ。



目を閉じることで、目の前の問題を解決することができる。

だがしかし、それは目の前の問題を本質的に理解し解決することに繋がるのか。

それとも、ただ単に目の前の問題から逃げているだけなのだろうか。


コメント