労働社会は『感覚で物事を話す』ことが許容されにくいわりに、『感覚で続く物事』がとても多い。
『感覚で物事を話す』
感覚は得てして、働く現場ではないがしろにされがちである。
こんな言葉が、労働社会では蔓延してはないだろうか。
・自論じゃなくて事実を追え
・なんとなく思うんじゃなくて、それがなぜ起きたのか、説明しろ
・言語化できないもの単純に考えきれていないだけだから、早く言語化しろ
もちろんその所属する会社・部署によってもまた異なるところがあるかと思うが、
基本的には、それは悪いことではないだろう。
でも、それがゆえに『感覚で物事を話す』ということは否定されがちだ。
本日、ずっとオルガンが専門でオルガン一本で突き進んできて、マスターまで取得、今は音楽療法を行うという方とお会いした。
ー音楽療法とは?
音楽療法とは、対象者(クライアント)の身体的、感情的、認知的、精神的、社会的なニーズに対応するために、音楽を意図的に使用する療法です。音楽療法は確立された専門職で、トレーニングを積み、資格をもった音楽療法士によって行われます。
http://yumikosato.com/
この方、小学生の時に私立の中学の外部公開されている授業を見た時に、オルガンを弾く中学生を見て憧れて、自身もオルガンを始めたらしい。
で、中高大とひたすらオルガン一筋。なんともその一貫性が素敵だなあと思いながら聞いていたのだが、途中でこんな言葉をもらした。
「でも、今の仕事だと正直オルガン続けるの難しいんです。」
よくよく聞いてみると、その音楽療法、基本的にはピアノで行うことが多いそうだ。もしくはギターとか。
彼女としては、ひたすらにオルガンを極めてきたからこそオルガンで音楽療法も行いたいそうなのだが、これは正直難しい。
なぜなら、そもそもオルガンというものはピアノほど汎用的ではないし、どこにでもあるような持っているようなものではない。
音楽療法は、結局患者さんがいる場所、もしくは連れていける場所でなくてはできないのだ。
結果、どこにでもあるピアノの出番というわけ。
彼女曰く、オルガンでの音楽療法の事例は世界を見てもないらしい。
できる場所が少ないということは、想像以上に事例を作る壁になっているよう。
「でも、私はそれを実現したいんですよね。オルガンが人に元気を与えて、そして心の糧になることを私は知ってますから」
彼女は、そう言いながらとても嬉しそうに笑っていた。
正直、オルガンで人に対してポジティブな影響を与えるということは現段階ではものすごく抽象的だし、とても感覚的な話だ。(創り手にとっても、受け手にとっても)
でも、個人的にはそんな抽象化された感覚が大好きで、人からそんな話を聞くととても勇気付けられる。
皆さんもそんなことはないだろうか。
ロジックで組まれた物事はたしかにわかりやすいのだけれど、心に響くことがとても少ない。
でも、非ロジックの感覚的なもの、感性的なものほど、心に響いたりする。
だが、社会では、そんな感覚がよく排除されている。
そこまで心に響くようなことを話さなくても良いのか、考えなくても良いのか、それはそれで悲しいなと思ったりする。
そんな労働社会のわりに、様々な組織で存在しているのが、『感覚で続く物事』だ。
そんなやわな言葉で書かずに他の表現をすると、『惰性』である。
『マネジメント上での動機づけ』の指標として、
マネジメントに関する最新の研究を記した『How to Build the Highest Performing Cultures Through the Science of Total Motivation』という本には、以下の6段階が提唱されている。
これ、具体的には上の方がパフォーマンスを高める、下のほうがパフォーマンスを下げると言われているのだが、
それぞれ以下のように「直接的動機」と「間接的動機」に分類される。
この6段階の指標にて最下層に位置しているのが、『惰性』。
『特に理由もないのだが、今までやってきたから今も続けている』そんな状態だ。
これは、実際かなり感覚的な判断だ。
とくに理由なく、感覚的に続けているだけ。
例えば、こんなものがあるだろう。
・毎週開催しているミーティング。今までと同じように参加者1人1人が情報共有だけをし続ける内容で実施し続け、なんだか眠い時間だ
・辞めた前任者から仕事を引き継いだが、前もやっていたので新たに担当する私もそのまま同じ作業をする
・今までの組織の慣習的に、このパートナー企業に頼んできたからとくに他の企業と比較することもせずに依頼する
おそらく、かなりの企業で実施されてしまっている現状と思う。
冒頭でも記したように、今の労働社会では『感覚で物事を話す』ことは許容されにくい。
だがしかし、その反面、今の労働社会では『感覚で続く物事』がとても多い。
なんと矛盾した社会だろうか。
少なくとも言えることは、
社会は人と同じく、結局矛盾を飲み込むことで成り立っているようなものだということ、なのかもしれない。
よくあることは、意外とそんな矛盾を全て飲み込んでくれるところがビジネスになったりするものだ。
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