思い悩んだ時、そして解決する時、僕の手にはいつも小説があった。
物心ついた頃から今に至るまで、小説は私の対話相手だ。
その登場人物の1人1人に私は問いかける。
「あなただったら、これってどう思う?」
「僕だったらあの人にこう言うよ!」
最近よく対話をしているのは、辻村深月さんの小説だ。
この前も以下のブログで少し辻村さんについて書いた。
最近も少しずつ、他の作品を読み進めている。
「にじみでる」気持ちは、言葉より強い。
http://yuki-kitamu.blogspot.jp/2017/06/blog-post_21.html
ちょっと話が反れるが、私は気がつけば1人行動をしてしまうタイプで、1人旅とか、1人カラオケ、1人キャンプ、1人ディズニーランド、、、など1人○○とかつくものは大概実行したことがある気がする。
(書き連ねると根暗感が半端ない。笑)
そんな1人の時、私は小説とよく一緒に行動する。
分かりやすく伝えよう。
こんな感じである↓
こちらの『スロウハイツの神様』について、今日はまず書こう。
現代版トキワ荘、とでも言うのだろうか。その中に住むアーティストたち、1人の天才及び各才能を持った人間が集まって繰りなす物語。
この中には、凄まじい才能を持つ者もいれば、自らの努力でその才能を構築した者もいる、そしてそれと比べてどうしても才能を華開かすことができない者もいる。
彼ら彼女らの人間味溢れるぶつかり合い、不器用な関わり合い、そしてその絆の強さを読んでいて、感じたのだ。
『ああ、ようやく長いトンネルの終盤なのかもしれない』と。
私は今年の2月くらいから、どうしても力を入れきれないでいた。
自分を守ろうとしているのか、単に疲れていたのか、辛いことはしたくなかったのか。
昨年末くらいまで持ち続けていた、焦燥感と必死感、努力の掛け方、時間の費やし方がどうしてもできなくなっていたのだ。
それまでは、自分で言うのもなんだが結構頑張って働いていたように思う。
もちろん会社にもサービスにも色々な出来事があったというのも一面としてあるが、毎日深夜3、4時まで色々していても全然辛くなかったし、むしろその状態をハイになって楽しんでいた。
だがそれが、年を越え、2017年が過ぎていけばいくほどできなくなってきた。
自分でもなぜなのか理由はわかっていなかったのだが、鈍化していく自分をはっきりと感じていた。
もどかしかった。
自分の将来との接合点があやふやになってきたから?
自分の想いが薄れているの?
今、何が必要で足りなくて求めなきゃいけないの?
そんなことを考えながら、でもそれをどうにか変えたくてもがいて、もがけばもがくほど絡め取られていく感覚。
毎日が過ぎていった。
でも、『スロウハイツの神様』が教えてくれた。
何をそんなに守ろうとしているんだと。
もっとシンプルに考えろと。
壁にぶつかっても、別にいいじゃないかと。
壁にもっとぶつかっていけと。
どれだけ稚拙でも、がむしゃらにまずやってみればいいじゃないかと。
今までもそうだった。
小説を読み進めるたびに、想いを馳せ、憧れ、嘆き、考え、行動し、そんなことを繰り返した25年間だった。
先日、付き合いの長い先輩にこんなことを聞かれた。
「きたむはなんでそんなに小説読むの?昔から、時々狂ったように小説読んでる気がするんだけど」
その時に、私はこう答えた。
「んー、友達とか彼女とかと話してるのと似てる感じですかね?思い悩む時ほど、読んでる気がします。」
言ったあとに、我ながら「なるほど。」と思った。
そうか、私にとって小説は"なんでも話せる人"なんだと。
なんでも話せる相手に、悩みを打ち明ける。そしてそれに勇気付けられてようやく前に進める。
そんな感覚で小説を読んでいるのだなと。
これからも、こんな風にして小説たちにお世話になることがあるだろう。
きっとたくさん。
それと同時に、思うのだ。
「私もそんな存在になれるように、必死に努力しよう」
とね。
スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)
スロウハイツの神様(下) (講談社文庫)
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