「日没する国」を否定し、「日出づる国」を信じる日本人




「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、……」

おそらく日本人の全員がどこかで見たことのあるこの文章。

607年に聖徳太子が、小野妹子ら遣隋使を介して隋の煬帝に向けて送った文書だ。


釈迦に説法ではあるが、これの意味はこんな感じ。

「日の昇る国の皇帝(日本の天皇)が日の沈む国の皇帝(中国の皇帝)に手紙を送るよ。変わりは無いか?」

要するに、隋の力はどんどん陰ってますけど、日本は結構いい感じっすよ。

ということが言いたいわけであり、当時の状態を考えると、言っていたことは確かに分からなくもない。


それから1400年以上経っている昨今、

「GDPが、、、」「輸出が、、、」「失業率は、、、」「生産性が、、、」

そんな言葉たちが毎日ニュースで流れている。

聖徳太子はさぞかし悲しむだろう。

どれもこれも、日本の状態が今とても悪いと伝える悲壮感漂う内容である。



ただそんな中、
「世界のこんな僻地に日本人がいる!」
「世界で日本人がやってきた功績って、すごいよ!」
「日本の技術を素晴らしいと感じる外国人がこんなにいる!」

こんな内容の番組がとても増えてきている。

どんどん右肩下がりな日本の状態をいつもインプットされて、肌身でも感じるところがある中で、このような良いインプットをされるのは日本に対しての自信を取り戻す良い機会なのだろう。


ただ私は正直、そのような番組を少し見るだけで、「気持ち悪いな」と感じる。

自国の文化が素晴らしいと礼賛して、どうなるというのだろうか。

とある1人の日本人は日本人(単数)というだけであって、日本という国家そのものではなく、
世界で活躍する日本人(単数)とは別人であり、素晴らしいと言われている技術をたくさん持った国家とは別物だ。


もちろん、私も一時期ひたすらに茶道を嗜んでいた身として、日本の文化は素晴らしいと感じている。
海外からいらっしゃった方に対して抹茶を点ててあげたり、煎茶を淹れてあげたら喜ばれ、「これにはどんな歴史があるんだ!?」と興味津々に聞いてもらい、大好きな文化が私の生まれたこの国にあってとても嬉しく思った機会は、1度や2度ではない。

また、秋田で木材商を営む家の孫として生まれ、建築士の息子として生まれ育った私にとって、日本の昔からの建築思想や、自然に対する畏敬の念、森羅万象に対する想いは幼少期より今に至るまで、自身を形成する大きな要素として存在している。


だがしかし、それを上記で挙げた番組のように礼賛する気にはならない。

なぜかというと、どれもこれも世界VS日本という構図の中で、「日本ってサイコー」と伝えているにすぎないと思っているからだ。
なぜ他と比較しなければいけないのか。他の国の文化も、他の国の技術も、同じくらい素晴らしいはずではないか。


もちろん、私の数少ない経験の中でしか判断していないというのは事実である。

小学4年生の時は、祖父の会社で働いていた中国人の方々がいつも親切にしてくれて、身内に対しての強い思いやりに嬉しくなった。
中学3年生の時は、オーストラリアで生のオペラを見て、なんて綺麗な世界なんだと感激した。
高校3年生の時は、トルコで多くの方の祈りの姿を見て、その美しさに惚れ込んだ。
大学4年生の時は、アメリカ西海岸で様々な靴や車などのアメリカ文化にどっぷり浸かって、なんてワクワクするものを創る国なんだと刺激を受けた。


自分が所属するところを優遇して考えたいというのは、誰もがそうだろう。

だが、比較してこちらが偉いということを主張するだけでは、何も始まらない。

違いを認め、違いと共に、違いを生かすということをしていかねば、停滞あるのみである。


今の日本人はまるで、「日没する国」を否定し、「日出づる国」を信じているかのようだ。


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